深刻な過ち
かなり長い間、学者たちは、体毛のない傷つきやすい身体を与えられた人間は、
その身を守る道具を作るために脳を進化させた、と主張してきた。
この信念の浸透ぶりはすさまじく、
我々は道具(家、衣服、武器、機械、文章、書物)があって初めて、
人間が生存できると信じ込んでいる。
道具を使いこなすのが知性の証と信じ、
道具を使う能力(書くことも)を知力の最終的基準にしてしまっている。
そして、この基準に子供の頭をはめ込んでしまう。
子供の教育の中心を、道具の使い方とその道具の使い方から発展してきた複雑で抽象的な体系の学習においているのである。
そのあげく我々は、小さな子供の頭にこの巧みな鈕型作業を施さないと、
その子は言語も思考も書くことも道具もない猛獣になってしまうに違いないと結論するのだ。
この過ちの及ぼす影響の大きさは計り知れない。
別に私は技術文明の成し遂げた偉業を攻撃するつもりはない。
原始人のように荒野で生活しろと言っているわけではない。
人間は荒野で生きるように作られたわけではない。
現在の社会生活の崩壊ぶりからわかるように、
都市という奇妙な悪夢の世界に住むよう作られたわけでもないはずだ。
人間は、庭園に住むように作られている。
庭園に住むにはその庭園の手入れをしなくてはならない。
資源を上手に管理し、注意深く支配していかなければならない。
道具はそのための付属品である。
もし、道具を使いこなす技術とパーソナルパワーを取り違えると、
深刻な問題に巻き込まれることになる。